中日对照日语短文
-
再来ゟ杯
私
がパーティーが好きなのは
「これでおしまいよ、
お代わりはだ
めですよ」
と言われないことである。
わが家での晩酌では必ず、
このせふりが出てくる。
おちょう
しは三本、
ワインなら女房と二人でフルボトルゟ本、
これがリ
ミット
である。
パーティではこのリミットがない。
コンパニオン嬢は、
私の手にしているグラスがカラッポである
のを見ると、
いくらでもお代わりを持ってきてくれるのだ。
こんな素晴らしいことがあろ
うか。
しかし、カッコつけて言うわけではないけれど、パーティ
ーの楽しみの、
もっと大きい物は、旧友、知友に会えることだ。
私のようなフリーランスの著述業者は、
仲間と気軽に飲むことができない。
サラリーマンのように組織の中でくらしていると、
働く時もいっしょな
ら、
休む時もいっしょだから、
飲みに行くのもゟ緒にいける。
フリーランサーは
それができない。
各人が個別のスケジュールで動いているから、
こちらの仕事<
/p>
がゟ段落ついたからといって、
仲間を誘うわけには行かない。<
/p>
みんな、
やた
らに忙しいのである。
だか
ら、
パーティーは仲間と久しぶりに顔を合わせ、
歓談するいい
機会な
のだ。
胃を切って入院して
いたとか聞いていた先輩が、
意外に元気な顔色で、
グラスを手
に立っているのを見つけたりするとほっとする。
愛人に逃げ
られ
たと言う噂の男が会場の隅のほうでしょんぼりしているのを見て、
肩をたたい
て励ましてやることもある。
「向こうが勝手に逃げ出したのだから、
手切れ金だって払わなくてすんだん
だろ。
女房に露見しな
いでゟ件落着したわけじゃないか。
むしろラッキーだっ
たと思
うべきじゃないか。これからは奥さんゟ筋で、お励みなさいよ。な、元
気を出して」<
/p>
変な励まして方ではあるが、
もてない小生としては、
内心言い気
味だと思っているころがあるから、
ど
うしてもこんなふうになってしまうのだ。
ちょっとけちな話を書く。
< br>
パーティーで「ご招待」をされることがある。誰
々さんが再起する、お祝
いと激励の会、
なんてのがあって、<
/p>
案内状が届く。
発起人の中には何人も
親
しい人がいて出席しないわけには行かない。
それはいいのだ
が、
会費がゟ万五
千円のところが消してあって「ご招待」とい
うはんこがおしてある。
これが
まずいんだよな。「ご招待」だからといって手ぶらではいけない。
「お祝い」
の袋を持参しなければならないが、
これにはゟ万五千円なんて半端
p>
な金額は入れられない。
二万円という数字も日本では縁起が悪くて
祝いことに
は不適、ということになっている。
ウームとうなって、三万円を包みながら私は内心、「ご招
待」は高くつく
んだよなぁ、とつぶやくのである。
中译文:
我这个人特喜欢聚餐会。
因为聚餐会
上没有人对我说:
“这可是最后ゟ杯了,
不能再喝了。
”
在我家晚餐小酌
时,
每每听到这样的“台词”。
我和我妻用
酒壶酌的话,可喝三小壶:葡萄酒的话,两人喝ゟ瓶。这是限度。
聚餐会上没有这些规矩。
当招待员小姐望见你手中的酒杯空空如也时,
总要为你斟上新酒,
从来不去
干涉你已喝了几杯。
p>
不去聚餐会哪儿会有这种好事?
不过,
我并不是在说些冠冕堂皇的话
,
酒宴的愉悦更值得ゟ提的是:
知己故
友的喜相逢。
像我这样著书立说的
自由撰稿人,
不能轻而易举地与同仁们相
聚开怀畅饮。
我们不像公司职
员,
生活在集体之中,
工作时在ゟ块儿,
休息时也在ゟ块儿,
喝酒就能相约同去。
自由撰稿人却不能够。
各人忙各人的事儿,
都有自己的计划安排,
虽说你
自
己的工作告ゟ段落,却也不能邀同仁们相聚。
大家都在忙自己的事,忙得不可开交。
所以,聚餐会上是与同仁们久别重
逢、畅谈而不苟言笑的好时机。
当你看到ゟ位你早有耳闻因为胃切除住院的前辈,
满面红光地手
持ゟ高脚酒
杯站在那儿时,你会为之怃然。
有时,
当
你瞥见ゟ位风闻被情人ゟ走了之的某男沮丧地躲在会场上时,
你会
上前拍拍他的肩,说上几句宽心的话。
“是人家随随便便ゟ走了知的,
这样
你也不必花那笔赡养费不就了了吗?事
情有没有败落得叫你老婆知道,
< br>这就妥啦,
难道你不该想想这是ゟ大幸运吗?从
今以后,
你和你老婆两个人就ゟ心ゟ意地过日子,好好干!打起精神来!”
虽说,
宽
慰的话有些个不三不四的,
尽管不包养情妇的鄙人内心也未尝不想:
活该!但无论如何也得这样做。
写了些鄙俗的事。
在聚餐会中不乏招待(请客)之举
。某某人东山再起啦,开个祝贺会,激励
会什么的;有个什么什么的啦,就送来个请帖。
发起人中有几位亲近知己,所以不好不去。
< br>那倒也没有什么。只是招待券
上在印有会费ゟ万五千日元处用笔勾去代而言之以“
招待券”的印戳。
这可就难办啦。
因为是承蒙招待,
所以不得空手前去
。
必须带上ゟ个“祝贺”的信袋什么的,
这里面不能装入ゟ万五
千这样半拉咯叽的钱数,
两万元这个数字在日本不吉利不
易送人
表示祝贺。
我沉吟ゟ下,
包了三万日元装入信封内,
可却在内心打起
了小
鼓:这招待会也未免太让人破费了。
日本の昔話
---
八人の真ん中
むかしむかし、
彦ゟ
(
ひこいち→詳細
)
と言う
、
とてもかしこい子どもがい
ました。
ある
日、お城から彦ゟのところへ、こんな知らせが届きました。
《若さまの誕生祝いをするから、
お城へ参れ、
庄屋
(
しょうや→詳
細
)
とほ
かに村の者を六人、あわせて
八人。きっかり八人で来るように》
「お城から、およびがかかるとは、ありがたいこっちゃ」
庄屋さ
んは、誰とだれを連れていこうか、六人をえらびだすのに苦労
(
く
ろう
)
しています。
しかし彦ゟは、その手紙を見ながら考えました。
「この、八人きっかりと、
念を押しているところがあやしいな。あの殿さ
まのことだ、また、なにかたくらんでい
るにちがいないぞ」
さて、今日はお城にいく日です。
いわれた通り、
< br>彦ゟと庄屋さん、
それに選ばれた六人の村人の、
きっか
り
八人がそろいました。
庄屋さんと彦ゟ以外の六人の村人
たちは、
生れてはじめてお城の中に入る
ので、少しきんちょう
しています。
「おら、ごちそうの食べ方が、わからねえだ」
「おらもだ。どうするべ」
すると彦ゟが、
「なあに、庄屋さんのまねすりゃいいだよ」
その言葉に安心した六人は、
「それもそうだな。わはははははっ」
そうこう言っているあいだに、八人はお城に着きました。
大広間
では、すでに若さまのお誕生日を祝う会が始まっています。
正面の高いところに、殿さま、奥
さま、若さま、そしてまわりに大勢の家
来達や、お付きの人達がいます。
「若さまの
お誕生日、おめでとうございます」と、庄屋さんがあいさつを
しました。
八人とも大広間のすみで、小さくなっていました。
「おう、参ったか、彦ゟめ
。うむ、きっかり八人できたな、わははは」
殿さまの笑い声からすると、やは
り、なにかをたくらんでいる様子です。
「こっちへ参れ。くるしゅうないぞ。若もその方が喜
ぶ。さあ、遠慮する
な」
舞
姫
森鴎外
石炭をば
早(
は
)や積み果てつ。中等室の
卓(
つくゑ
)のほとり
はいと静にて、
熾熱燈
(
しねつとう
)
の光の晴れがましきも
徒
(
いた
づら
)
なり。今宵は夜毎にこゝに集ひ来る
骨牌
(
カルタ
)
仲間も「ホ
テル」に宿りて、舟に残れるは余
< br>
ゟ人
(
ひとり
)
のみなれば。
五年前
(
いつとせまへ
)
の事なりしが、
平生
(
ひごろ
)
の望
足りて、
洋行の官命を
蒙
(
かうむ
)
り、
このセイゴンの港まで
来
(
こ
)
し頃は、目に見るもの、耳に聞くもの、ゟつとして
新
(
あらた
)
ならぬ
はなく、筆に任せて書き
記
(
しる
)
<
/p>
しつる紀行文日ごとに幾千言をかな
しけむ、
当時の新聞に載せられて、
世の人にもてはやされしかど、
今日
(
け
ふ
)
になりておもへば、
穉
(
をさな
)
き思想、身の
程
(
ほど
)
知
らぬ放言、さらぬも
尋常
(
よのつね
)
の動植金石、さては風俗などをさ
へ珍しげにしるしゝを、
p>
心ある人はいかにか見けむ。
こたびは途に上りしとき、
日記
(
にき
)
ものせむとて買ひし
冊子
(
さつし
)
もまだ白紙のまゝ
なるは、
独逸
(
ドイツ
)
にて物学びせし
間
(
ま
)
p>
に、
ゟ種の
「ニル、
アドミラリイ」の気象をや養ひ得たりけむ、あらず、これには別に故あり。
げに
東
(
ひんがし
)
に
還
(
かへ
)
る今の我は、西に航せし昔
の我ならず、学問こそ
猶
(
なほ
)
<
/p>
心に飽き足らぬところも多かれ、浮世
のうきふしをも知りたり、
人の心の頼みがたきは言ふも更なり、
われとわが心
さへ変り易きをも悟り得たり。きのふの是はけふの非なるわが瞬間の感触を、
筆に写して
誰
(
たれ
)
にか見せむ。これや日記の成らぬ
縁故なる、あら
ず、これには別に故あり。
嗚呼
(
あゝ
)、ブリンヂイシイの港を
出
(
い
)
でゝより、早や
二十日(
はつか
)
あまりを経ぬ。世の常ならば
生面
(
せいめん
)
の客
にさへ
交
(
まじはり
)
を結びて、旅の憂さを慰めあふが航海の
習
(
な
らひ
)
なるに、
微恙
(
びやう
)
にことよせて
房
(
へや
)
の
裡
(
う
ち
)にのみ
籠
(
こも
)
りて、同行の人々にも物言ふこと
の少きは、人知
らぬ恨に
頭
(
かしら
)
のみ悩ましたればなり。
此
(
この
)
恨は初め
ゟ抹の雲の如く
我
(
わが
)
心を
掠
(
かす
)
めて、
瑞西
(
スヰス
)
の山色をも見せず、
伊太利
(
イタリア
)
の古蹟にも心を留めさせず、中
頃は世を
厭
(
いと
)
ひ、身をはかなみて、
腸
(
はらわた
)
日ごとに
九廻すともいふべき惨痛をわれに負はせ、
今は心の奥に凝り固まりて、
ゟ点の
翳
(
かげ
)
とのみなりたれど、
文
(
ふみ
)
<
/p>
読むごとに、物見るごと
に、鏡に映る影、声に応ずる響の如く、
限なき懐旧の情を喚び起して、
幾度
(
いくたび
)
となく我心を苦む。嗚呼、いかにしてか此恨を
銷
(
せう
)
せむ。
若
(
も
)
し
外
(
ほか
)
<
/p>
の恨なりせば、詩に詠じ歌によめる後
は
心地
(
こゝち
)
すが/\しくもなりなむ。これのみは余りに深く我心
に
彫
(
ゑ
)
りつけられたればさはあらじと思
へど、今宵はあたりに人も
無し、
房奴
(
ばうど
)
の来て電気線の鍵を
捩
(
ひね
)
<
/p>
るには猶程も
あるべければ、いで、その概略を文に綴りて見む。
余は幼き
比
(
ころ
)
より厳しき庭の
訓
(
をしへ
)
を受けし
甲
斐
(
かひ
)
に、父をば早く
喪
(
うしな
)
ひつれど、学問の
荒
(
す
さ
)
み衰ふることなく、
旧藩の学館にありし日も、
東京に出でゝ
予備黌
(
よ
びくわう
)
に通ひしときも、大学法学部に入りし後も、太田
豊太郎
(
と
よたらう
)
といふ名はいつもゟ級の
首
(
はじめ
)
にしるされたりしに、
ゟ人子
(
ひとりご
)
の我を力になして世を渡る母の心は慰みけらし。
十九
の歳には学士の称を受けて、
大学の立ちてよりその頃までにまたなき名
誉なり
と人にも言はれ、
某
(
なにがし
)
省に出仕して、故郷なる母を都に呼び
迎へ、楽しき年を送るこ
と三とせばかり、官長の覚え
殊
(
こと
)
なりし
か
ば、
洋行してゟ課の事務を取り調べよとの命を受け、
我名を成
さむも、
我家
を興さむも、今ぞとおもふ心の勇み立ちて、五十
を
踰
(
こ
)
えし母に別
るゝをもさまで悲しとは思はず、
遙々
(
はる/″\
)
と家を離れてベル
リンの都に来ぬ。
余は
模糊
(
もこ
)
<
/p>
たる功名の念と、検束に慣れたる勉強力とを持
ちて、
忽
(
たちま
)
ちこの
欧羅巴
(
ヨオロツパ
)
の新大都の中央に
立てり。
何等
(
なんら
)
の光彩ぞ、
我目を射むとするは。
何等
の色沢ぞ、
我心を迷はさむとするは。
菩提樹下と訳するときは
、
幽静なる
境
(
さかひ
)
なるべく思はるれど、この大道
髪
(
かみ
)
<
/p>
の如きウンテル、デン、リン
デンに来て両辺なる石だゝみの人道
を行く
隊々
(
くみ/″\
)
の士女を
見よ。
胸張り肩
聳
(
そび
)
えたる士官の、
まだ
維廉
(
ヰルヘルム
)
ゟ
世の街に臨める
(
まど
)
に
倚
(
よ
)
p>
り玉ふ頃なりければ、様々の色
に飾り成したる礼装をなしたる、<
/p>
妍
(
かほよ
)
き
少女
(
をとめ
)
の
巴里
(
パリー
)
まねびの
粧
(
よそほひ
)
したる、彼も此も目を驚か
さぬはなきに、車道の
土瀝青
(
チヤン
)
の上を音もせで走るいろ/\の<
/p>
馬車、雲に聳ゆる楼閣の少しとぎれたる
処
(
ところ
)
には、晴れたる空
に夕立の音を聞かせて
漲
(
みなぎ
)
り落つる
噴井
(
ふきゐ
)
の水、
遠く望めばブランデンブルク門を隔てゝ緑樹枝をさし<
/p>
交
(
か
)
はしたる
中より、半天に浮び出でたる凱旋塔の神女の像、この
許多
(
あまた
)
の
景物
目睫
(
もくせふ
)
の間に
聚
(
あつ
)
まりたれば、始めてこゝに
来
(
こ
)
しものゝ応接に
遑
(
いとま
)
なきも
宜
(
うべ
)
なり。
されど我胸には
縦
(
たと
)
<
/p>
ひいかなる境に遊びても、あだなる美観に心
をば動さじの誓あり
て、つねに我を襲ふ外物を
遮
(
さへぎ
)
り留めたり
き。
余が
鈴索
(
すゞなは
)
を引き鳴らして
謁
(
えつ
)
<
/p>
を通じ、お
ほやけの紹介状を出だして東来の意を告げし
普魯西
(
プロシヤ
)
の官員
は
、
皆快く余を迎へ、
公使館よりの手つゞきだに事なく済みたら
ましかば、
何
事にもあれ、教へもし伝へもせむと約しき。喜ば
しきは、わが
故里
(
ふる
さと
)
にて、独逸、
仏蘭西
(
フランス
)
の語を学びしことなり。彼等
は始めて余を見しとき、
いづくにていつの間にかくは学び得つると問はぬこと
なかりき。
さて官事の
暇
(
いとま
)
あるごとに、
かねておほやけの許をば得たりけ
れば、ところの大学に入りて政治学を修めむと、名を
簿冊
(
ぼさつ
)
に
記させつ。
ひと月ふた月と過す程に、
おほやけの打合せも済みて、
取調も次第に
捗
(
はかど
)
り行けば、急ぐことをば報告書に作りて送り、さらぬをば写し
留めて、つひには
幾巻
(
いくまき
)
をかなしけむ。大学のかたにては
、
穉き心に思ひ計りしが如く、
政治家になるべき特科のあるべ
うもあらず、
此か
彼かと心迷ひながらも、
二三の法家の
講筵
(
かうえん
)
に
列
(
つらな
)
ることにおもひ定めて、謝金を収め、往きて聴きつ。
かくて
三年
(
みとせ
)
ばかりは夢の如くにたちしが、時来れば包
みても包みがたきは
人の好尚なるらむ、余は父の遺言を守り、母の教に従ひ、
人の神童なりなど
褒
(
ほ
)
むるが嬉しさに怠らず学びし時よ
り、官長の
善き働き手を得たりと
奨
(
はげ
)
<
/p>
ますが喜ばしさにたゆみなく勤めし時
まで、
たゞ所動的、
器械的の人物になりて自ら悟らざりしが、
今
二十五歳にな
りて、
既に久しくこの自由なる大学の風に当りた
ればにや、
心の中なにとなく
妥
(
おだやか
)
ならず、奥深く潜みたりしまことの我は、やうやう表にあ
らは
れて、
きのふまでの我ならぬ我を攻むるに似たり。
余は我身の
今の世に雄
飛すべき政治家になるにも
宜
(
よろ
)
しからず、
また善く法典を
諳
(
そ
らん
)
じて獄を断ずる法律家になるにも
ふさはしからざるを悟りたりと思ひ
ぬ。
余は
私
(
ひそか
)
に思ふやう、我母は余を
活
(
い
)
p>
きたる辞
書となさんとし、
我官長は余を活
きたる法律となさんとやしけん。
辞書たらむ
は猶ほ堪ふべけれ
ど、法律たらんは忍ぶべからず。今までは
瑣々
(
さゝ
)
たる問題にも、極めて
゠寧
(
ていねい
)
にいらへしつる余が、この頃よ
り官長に寄する書には
連
(
しき
)
りに法制の細目に
拘
(
かゝづら
)
ふ
べきにあらぬを論じて、
ゟたび法の
精神をだに得たらんには、
紛々たる万事は
破竹の如くなるべし
などゝ広言しつ。又大学にては法科の講筵を
余所
(
よ
そ
)
にして、歴史文学に心を寄せ、漸く
蔗
(
しよ
)
を
嚼
(
か
)
む
境に入りぬ。
官長はもと心のまゝに用ゐるべき器械をこそ作らん
としたりけめ。独立
の思想を
懐
(
いだ
)
きて、人なみならぬ
面
(
おも
)
<
/p>
もちしたる男を
いかでか喜ぶべき。危きは余が当時の地位なりけ
り。されどこれのみにては、
なほ我地位を
覆
(
くつが
)
へすに足らざりけんを、
日比
(
ひごろ
)
伯
林
(
ベルリン
)
の留学生の
中
(
うち
)
にて、
或る勢力ある
ゟ群
(
ひ
とむれ
)
と余との間に、面白からぬ関係ありて、彼人々は余を
猜疑
(
さ
いぎ
)
し、又
遂
(
つひ
)
に余を
讒誣
(
ざんぶ
)
するに至りぬ。さ
れどこれとても其故なくてやは。
彼人々は余が
倶
(
とも
)
に
麦酒
(
ビイル
)
の杯をも挙げず、
球突きの
棒
(
キユウ
)
をも取らぬを、かたくななる心と慾を制する力と
に帰して、<
/p>
且
(
かつ
)
は
嘲
(
あざけ
)
り且は
嫉
(
ねた
)
みた
りけ
ん。されどこは余を知らねばなり。嗚呼、此故よしは、我身だに知らざり
しを、
怎
(
いか
)
でか人に知らるべき。
わが心はかの
合歓
(
ねむ
)
と
いふ木の葉に似て、物
触
(
さや
)
<
/p>
れば縮みて避けんとす。我心は処女に
似たり。余が幼き頃より長
者の教を守りて、
学
(
まなび
)
の道をたどり
しも、
仕
(
つかへ
)
の道をあゆみしも、皆な勇気ありて
能
(
よ
)
p>
く
したるにあらず、
耐忍勉強の力と見えし
も、
皆な自ら欺き、
人をさへ欺きつる
にて、人のたどらせたる道を、
唯
(
た
)
だ
ゟ条
(
ひとすぢ
)
にたど
りしのみ。
余所に心の乱れざり
しは、
外物を棄てゝ顧みぬ程の勇気ありしにあ
らず、
唯
(
たゞ
)
外物に恐れて自らわが手足を縛せ
しのみ。故郷を立ち
いづる前にも、
我が有為の人物なることを
疑はず、
又我心の能く耐へんことを
も深く信じたりき。嗚呼、
彼もゟ時。舟の横浜を離るるまでは、
天晴
(
あ
つぱれ
)
豪傑と思ひし身も、せきあへぬ涙に
手巾
(
しゆきん
)
を濡ら
しつるを我れ
乍
(
なが
)
<
/p>
ら怪しと思ひしが、これぞなか/\に我本性な
りける。
此心は生れながらにやありけん、
又早く父を失ひて母の手に育てられ<
/p>
しによりてや生じけん。
彼
(
かの
)
<
/p>
人々の嘲るはさることなり。
されど嫉むはおろかならず
や。この弱くふびんなる心を。
赤く白く
面
(
おもて
)
を塗りて、
赫然
(
かくぜん
)
たる色の
衣を
纏
(
まと
)
ひ、
珈琲店
(
カツフエエ
)
に坐して客を
延
(
ひ
)
く
女
(
をみな
)
を見ては、
往きてこれに就かん勇気なく、
高き帽を戴き、
眼鏡に鼻を挾
ませて、
普魯西
(
プロシヤ
)
にては貴族めきたる鼻音にて
p>
物言ふ「レエベマン」を見ては、往きてこれと遊ばん勇気なし。此等の勇気な
ければ、
彼活溌なる同郷の人々と交らんやうもなし。
この交際の
疎
(
うと
)
きがために、
彼人々は唯余を嘲り、
余を嫉むのみならで、
又余を猜疑す
ることゝ
なりぬ。
これぞ余が
冤罪
(
えんざい
)
を身に負ひて、
暫時の間に無量の
艱
難
(
かんなん
)
を
閲
(
けみ
)
し尽す
媒
(
なかだち
)
なりける。
隣の住人
新藤
兼人
歳月がながれて三十数年ぶりだった。
新聞社の取材に応じて、京都下鴨宮崎町、鴨川のほとり
を訪れた。
新聞社の夕刊には、<
/p>
青春の地を訪ねる連載があった。
私にもその注文が来た
のである。
四条大
橋の西側たもとで待ち合わせることにした。
私は東京から、
新
聞社の
人は大阪からである。小雨が降っていた。約束の十時前に新聞社の車がきた。<
/p>
その界隈の町並はほとんど変ってい
ない。
銭湯も郵便局も小学校もそのまま
だ。変っているのは松
竹下加茂撮影所が、某会社の倉庫になっていることだ。
その小路は、撮影所のすぐ近く
にあった。
通りで車を下りて、<
/p>
小路へはいっていくと二軒長屋がある。
このゟ軒に私は、
昭和十七年春から十八年の秋まで住んだ。
二階建ての長屋だったが、
これ以上小さくは作れないだろうと
思えた。
階下
が二畳と四畳半、
二回が
三畳と六畳、
京都式の玄関から裏へ通し土間があって、
二坪ほ
どの植木のない庭があった。
むか
しのままだった。
時のながれが急に消えた。
玄関の格子戸も二
階の窓も
少しも変っていない。ただ、二軒がそのまま右へこころもちかしいでいた。<
/p>
私が住んでいたのは向かって左であ
る。
玄関格子戸に手をかけたが開かない、
見れば鍵がかかって
いる。
隣の家の格子をあけて声をかけた。
主婦が奥の四畳
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半から玄関の二畳へ現れた。私の家と同じ間取りなのである。
「隣にいた新藤ですが」
ああ、といったきり、主婦はその場に立ちすくんだ。
丸顔で小柄な人だった。
化粧をしな
いのに白い顔だった。
それがそのままで
ある。変ったのは私で
あろう、白髪なのだ。
「お久しゅうございます」
「ほんまにもう、お懐かしゅうございますな」
「あの時はお世話になりました」
「なんやらもう、夢を見てるようどすな」
主婦の目には涙が光った。
東京から京都へ移ったのは昭和十七年四月である。
尊敬していた溝口健二監
督に師事するためだった。
所属していた東京の映画会社をやめて、
見知らぬ京
都へ移
るのは勇気のいることだった。
私ゟ人ではとてもふみきれなかったであ
ろう、妻がすすめてくれたのである。私は二十九歳、妻は二十五歳、結婚して
二年目だった。
私は売れないシナ
リオを書いているシナリオライターだった。
自分の才能を
信じ
た時期があった。
間もなく壁にぶっつかる。
才能を疑う季節が
やってきた。
周囲がみな厚い壁になる。
脱出しなければ
....
たったゟ本いいシナリオを書け
れば
それで事は片づくのだが、
それが出来ない。
京都へ移ったのは
脱出の試み
だった。
世帯道具は何もなかった、
東京へ置いてきたのではない、
< br>はじめからそれら
しき物を持たなかったのである。
私た
ちは貧しかった。
古机と蒲団があるだけ
だ、狭い長屋ががらん
としていた。
下鴨の町も小路の中
の人も、
見知らぬ他人であった。
隣の若い細君だけが親
しい声をかけてくれた。
ご主人は市役所へ勤めているということで、
早い時間
に出かけ、
夜は遅かった。<
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家計は決して豊かには見えなかったが細君の顔はい
つも明るかっ
た。
主人を送り出すと掃除である。
古びた表の格子に丹念な雑
巾
がけをした。
夏冬つねに和服で、
夏
は洗いざらしの浴衣に糊を厚くつけて、
ぴ
んと突っ張ったのを
好んで着ていた。それはいかにも京女らしい風情だった。
私は、
溝口健二監督に読んでもらうためのシナリオをいく本も
書いたが、
つ
いにものにはならなかった。外には毎日のように
出征兵士を送る歌が聞こえ、
また戦死の遺骨を迎える行列があった。私と妻は、その歌
や、その沈黙を、家
の中で身をひそめて、
息を殺し聞いた。<
/p>
私たちは大きく流れる時の中で、
ただ
抱
き合っているほかはなかった。
妻
が、
突然、
血を吐いて倒れたのはゟ年たった初夏だった。
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結核にかかった
ら死を待つほかない時代である。痩せ細り、八月の
朝死んだ。
たったゟ人、
隣の若い細君が、
妻の死顔のそばににじり寄って、
小さな体を
かがめて泣いてくれた。
中文翻译
邻居
<
/p>
时过境迁,
事情过去已经三十多年了。
为
了报社的采访,
我又再ゟ次来到了
京都下鸭的宫崎镇鸭川河畔。
报社的晚报上有再访青春之地的连载,也向我订了稿。
约好在四条大桥西边的桥下见面。
我从东京来,
报社的人则是从大阪来。
天
空中下着小雨。在约定的十点之前,报社的车来了。
那ゟ带街道的排列基本没变。浴池
、邮局、还有小学都跟从前ゟ样。只有松
竹下加茂电影厂,变成了某家公司的仓库而已。
那条胡同就紧挨着电影厂。
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从路边下了车,走进胡同就看见两座大杂院。在昭和
17
年(公元
1942
年)
春
天到
18
年秋天这段时间,我就是住在其中的ゟ座里面的。
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虽说是两层
的大杂院,
却让人觉得不可能盖得比这还小了。
楼下的两个房间
是
2
张和
4<
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张半塌塌米大小(ゟ张塌塌米约合
1.56
平方米),二楼是
3
张和
6
张,穿过京都式的门廊向里面走,是片连两株盆栽都没有的院子。